regrettingmotherhoodから自分を知る


 すでに子どもがいるなら(特に女性なら)、子どもを教育しなければなりません。自分が子どもの頃に教えられた聖牛(批判・攻撃がタブーとされる存在)を殺し、すべての「価値観」、イデオロギー、自己正当化を抹消することが重要であり、必要なのだと。ステレオタイプと適合性の罠に落ちた時や、自分自身に噓をつき、子どもや孫に真実を隠すときに、自分を省みるために、ごく「正常」で「自然」になった慣用表現、たとえば「子どもは喜びだ。子どもは恵みだ」「血は水よりも濃い」「家族が最優先だ」といった言葉を、外科医のような鋭さで精査するために、慣用表現の破壊力に用心しなければ、これが社会的・文化的DNAの一部になり、永遠のあるべき姿であると納得させられてしまいます。
 子どもを産んだことについて反省を表明するのは罪ではありません。自分自身と、産んだ子供に真実を話さないことが罪なのです。伝えたり、書いたり、明かすことができない暗い秘密を抱えたまま死ぬこと、それこそが罪です。

インタビューの後に送られた女性からの手紙。母としての経験と後悔を子どもに話すべきかどうかを決めかねている。これからを生きていく子どもたちが、社会から与えられた道をたどらないために。
母親として、社会的に「許された」部分だけを切り取られたストーリーだけが残されて、自分の経験に基づいた苦悩はフィルターにかけられ置き去りになる。「良い母」に私もなりたいと思うけれど、とても苦しい。「良い母親」に反する考え方を持つこと、表に出すこと自体がタブーとされてきた。社会の期待に合わないことは、言ってはいけない。行き場のない思い、それが息苦しいんだな。


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