作者のオルナ・ドーナトはイスラエルの社会学者。イスラエルで女性が結婚しない、子どもを持たない、母親にならないという選択肢はないに等しい。厳格なユダヤ教コミュニティでは生きていけない。
「ロニートとエスティ・彼女たちの選択」という映画。イギリスのユダヤ教コミュニティからニューヨークに逃げ出した、ロニート。父親はラビ。エスティはコミュニティに残って結婚した。二人は愛し合っていた。けれど、それは許されないことだった。結婚した女性が被る重苦しい黒髪のカツラが、社会での抑圧を表しているようだった。お前はここでこうやって生きろと頭の上から重たく押さえつけているようだった。結婚したら、金曜日の夜はセックスする。子どもを作るための決まりだ。決まりっていうのは考える余地がない。だって決まりだから。ほかに選択肢がないのだから、そこに疑問を持ちさえすることは許されないし、疑問など持たないのかもしれない。
本を、読んでいる。
母親になることと子どもを愛することは別だ。子どもは何より大事な存在になってしまう。そうではない、とは言えない。世間的にも。だからこそ、自分を殺して母親にならないといけない。禁欲的になって、子どもに愛情を注いだり、世話したりしないといけない。子どもを産んで育てるというのは、苦しいことだった。今もそう。苦しい。でも素晴らしい瞬間もある。独身だったら味わえないような経験もできる。でも一瞬だ。ほんの一瞬。そのために自分を捧げないといけない。
そんなのおかしい。そんな話聞いてない。そんなのいやだ。
そんなこと言うのさえも許されない空気がある。それが、息苦しさの原因だ。
お母さんは子どもに愛情を注ぐのが当たり前。自分の時間が欲しい?大きくなったらできるよ。そんなことはない。
ずっと、母親なんだから、っていうのがつきまとう。何をしても小さな罪悪感がある。子どもを優先していないんじゃないかって。
私は夫が嫌いだ。
でも子どもは好きだし、責任がある。
責任は果たしたいと思うけれど、それを夫と一緒にやりたくない。一秒でも一緒にいたくない。同じ空間にいない方法を探している。
2年で離婚が目標だ。
どうやって、子どもにいい形で関われるか、探している。
母親というよりも、一人の人間として。
私がどうありたいのかが、大事なんだと思う。
私の中の、母親である部分を認めて、そこも私。だけど、一人の大人として、人間として、どう生きていくのか、何を大事にするのか、なにを目指すのか、探っていきたいと思う。
私の中の私に聞く、答えが聞こえるような気がするが、小さな声。耳を澄ませて丁寧に聞いていく。
今まで、無視してきてごめんね。
私の中の小さな声さん、これからは大事にするからね。